鬼ごっこかくれんぼ

今晩のおじじわんは幼なげだった。

ごっこかくれんぼがしたいんだ、という気持ちが伝わってきた。


おじじわんは小さい頃に、私が遊びを教えるのが下手だったこととたっぷり遊んであげなかったことから、遊び下手だ。そして、一番好きな遊びが鬼ごっこかくれんぼだった。

私がおじじわんを追い立て追い掛けて、逃げて隠れる。それをおじじわんが探して見つけて、私がまた追いかける。私はおじじわんにみつけてもらうのが好きだった。


おじじわんがおじじわんになって、久しい。もう十分には走れないし、歩くのも精一杯。私を探すことも難しい。私を見つけて、身体を低くすることはできない。

だから、一緒に鬼ごっこかくれんぼをしようなんて、この頃は思いつきもしない。


最近は毎晩、おじじわんとの時間を過ごしている。おじじわんは何度も何度も私たちを呼ぶ。

少しずつ、何を言っているのかわかってきた気がする。


寒い(お洋服・湯たんぽが必要な気温じゃないかい?)

毛布をかけて欲しい(包まれると安心するのだ)

目が覚めたらびっくりした(どうして誰もいないの?)

寝入るまで見ていて欲しい(寝息が聞こえるでしょう)


かなわない、かなわないのだけど、これって幸せなんだ。いま、少しずつ気温が暖かくなって、ついこの間満月だったから空が明るくて、しかも切れていた街頭の電球を変えたので。寝入り端に鼻面に手を持っていくと、濡れた鼻先がベチャベチャと触れる。頬擦りしてくれている気もする。


ところが今日はなかなか小屋に入らない。

ぼっ、と立っていて、腰がどんどん下降するのになんとか踏ん張っている(ぼっ、というのはガリガリの曲がった背中の癖してアメリカンホットドッグのように着膨れしているので。腰が下降するのは筋肉が落ちて立ち続けていられないから。)。

目の輝きと寝ないぞと言う強い意志と、何だか少しワクワク感が伝わってきたのか、もしかしたら鬼ごっこかくれんぼがしたいのかも?と感じた。


試しに追いかけるふり、両手を上げて近づいてみると、じっとこちらを見た後に振り返り、ヨタヨタと歩いていく。ついて行って、捕まえたと言う。体に触れるとするりと(いう感じのヨタヨタで)脇をすり抜けて行く。

多分、これは鬼ごっこかくれんぼなのだ。

嬉しくなって思わず頭をわしゃわしゃして頬擦りしてしまった。


(一応、隠れても見たのだけれど、私が視界に出現した時の驚きや認知の負荷の方が大きいのか尻餅をつかせてしまって失敗した。)


昔一緒に鬼ごっこかくれんぼをした日々が巡る。どうしてもっとたくさんしてあげなかったのかと泣きたくなったけれど、今日という日のプレゼントが愛おしい。

尻尾を立てて駆けてきてくれた。



いいお正月

おせちを食べて(『坂の上の雲』を見ながら)

おばあちゃんに会いに行って(今日は父も含めて3人で、眠眠だった)

おばあちゃんに電話して(おばあちゃんのところは先日雪が降ったと話して)

おせちをお酒を飲みながらまた食べて(栗きんとんばかり食べる)

昼寝をして(猫はいない、お腹が痛い)

年賀状を読んで(返事?を書かないと)

パキラが枯れかけていて(水のやりすぎか)

SNSを操作して(新年だから)

母がおじじワンの布団を乾かしていて(寝ている間にあらってくれた)

おじじワンの散歩に行って(快腸、本当によかった)

夕飯を食べて(カレーうどんとおせちとツナサラダ、猫がツナ缶を狩る)

おじじワンと猫もご飯を食べて(おじじワンがよく食べる)

しばらくして(思い出せない)

相棒を見ながら年賀状を書いて(つまらなかった)

おじじワンの暖をとって(湯たんぽ)

1日が終わり(いいお正月)

 

年の瀬に・・・大(急ぎ)掃除

 大(急ぎ)掃除とは、年の瀬を気持ちよく過ごし新しい年に前向きなスタートダッシュをきるための掃除のことです。大掃除の夢破れたときに、新たな夢として浮上していきます。大掃除の夢が敗れた後では、大(急ぎ)掃除をする心さえも挫けがちです。なんせ、大掃除でやりたかったことのほんの少ししか、大(急ぎ)掃除ではできないからです。

 理想と結果の齟齬をいかに受け入れてがむしゃらに前進するか、私の課題の一つです。

 スタート時点では、寝坊したことと大掃除の敗北からあまりやる気がなかったのですが、他の人が頑張っていると無視できません。

 

 外回り〜庭〜自室〜廊下〜階段〜玄関〜リビング〜トイレ

 

 これだけの箇所を、短時間かつクオリティーを中以下で設定して掃除をすることはあまりありません。掃除中何度も、「本当は〜したいのに」「これじゃあ本当のキレイとは程遠い」「どうせやっても中途半端だ」とという思いが湧いてきましたが、大なる目的のために突っ走りました。そんな気持ちの中でも、終わったときの喜びと言ったら・・・!お酒が美味しい、紅白が面白い!大(急ぎ)掃除でも、家の空気は澄むんです。

 

 とにかく仕舞をつけること、この快感を胸に抱いて新しい年を迎えます。

 そして少しずつ、小掃除を重ねていきます。

『闇の伴走者』(WOWWOWドラマ)

 WOWWOWドラマは、宮部みゆきの『楽園』が面白かったので最近よく試聴しています。今のところ『楽園』ほど肌に合う作品には出会えていないのですが、久々に食いついてしまいました。『闇の伴走者』は、長崎尚志『醍醐真司の博覧推理ファイル』をドラマ化した物です。漫画編集者を探偵役としたミステリー作品で、漫画業界や出版業界の事情が物語を彩るのですが、そこが一番興味深かったです。

 探偵役の一人、醍醐(編集者:古田新太)が熱く語るほどに、学問としての漫画論も確立されているのでしょう。醍醐が語る面白い”漫画”は、それはそれは読んでみたいと思うほどに魅力的です。絵がない漫画。これに近い感覚を、奥泉光シューマンの指』で感じたことがあります。音のない音楽。ある種の情熱や感情という熱量が、技術や物体を伴わなずに、実体化させる。「物語る」にはそれができるのだと気づかされます。そして理想論の中にも「美しい作品」が確かにあるのだということも。

 

 高い理想と明確なイメージを持つこと、それを実体化させることと実体化させるために全力を尽くすこと。

 

 私は各業界でトップを目指すということに、快感に近い好感を持っていました。お笑い芸人の舞台や舞台準備、舞台などです。それはなぜなのか。作品そのものももちろんですが、その作品という行為そのものから、目指すべき完成形(高い理想と明確なイメージ)を感じられるほどに高められているからではないか、と今日は思いました。

 

 ただ、後半の事件解決パートは少し物足りなく感じました。理由まではわからないのですが、何となく、構成と盛り上げどころを押さえた面白さだけでは私の感性には触れきらないのかも、と思いました。私はずっと消費側なので、「面白い・面白くない」「好き・嫌い」「快・不快」などの物差しで物を選ぶだけです。その裏に、どれほどの人や思い、時間があるかも気にかけずに。 ・・・と書きながらも、新たに新シリーズ『闇の伴走者〜編集長の条件』の視聴を開始しています。面白いですよ。古田新太がスカジャンを着て、リュック背負って走っているところが最高です。

 

 

 

 

フラフープはじめました

 私は小さな頃、運動神経は結構良かったのですが竹馬とフラフープができませんでした。一輪車は得意でしたが、縄跳びは苦手でした。竹馬、フラフープ、一輪車、そして縄跳び。どれも私が小学生の頃に、昼休みに遊ばれていた遊具です。私の小学校では、共用遊具として竹馬と一輪車、そしてフラフープがありました(もしかしたらフラフープは幼稚園だったのかもしれません)。昼休みになると、小学生たちが遊具置き場に駆けて行って取り憑かれたように15分間(20分間だったかも)遊びました。共用遊具には限りがあるので、エネルギーのある子供が一番始めに遊具にたどり着きます。その近くで「次は私の番」と、遅れてきた子供が順番待ちをするのです。

 

 私は、竹馬とフラフープに憧れていました。とても面白そうだと思っていました。けれども記憶に残っているのは、何とか順番待ちの列に並んで竹馬を渡され少しだけ足を駆けた後倒れ込んで床に足をつき後ろの順番待ちの子に竹馬を渡した私。あるいは、フラフープを見様見真似で回してみてすぐに足元にストンと落ちてしまいやめてしまった私。いずれにせよ、あまり触れるまもないまま、私の側から過ぎ去っていた物等です。

 対して一輪車ですが、私は両親に買ってもらい持っていました。手で支えずに立ったまま乗る「立ち乗り」もできて、家の周りを乗り回していました。学校で順番待ちをして乗ることはありませんでしたが(家にあったので)、将来はピエロになりたいと思うくらい一輪車が好きでした。でも、バックはできませんでした。

 縄跳びは持っていました。でも、縄跳びが嫌いなのか反復練習が嫌いなのかおそらく後者ですが、あまり上手ではありませんでした。

 

 昨日、ふとフラフープを買ってみようと思い立ちました。いちばんの理由は一昔前の「フラフープダイエット」を思い出したからですが、フラフープに憧れていたことを思い出したからです。どうして私はできないままにここまできたのだろうか、と素朴に疑問に思ったからです。

 「引っ込み思案で何かと積極性の乏しい子供」だったのかもしれませんが、できないままにいられるその中途半端さを、突き詰めてみたいともいました。いろいろなことを思い出して、竹馬や縄跳びのことも思い出して、そうして「物事の飲み込みに時間がかかる」「急かされることに弱い」という現在の私に通ずる性格に起因するのではないか、と思い至ったのです。もう私もいい大人なので、フラフープをするにあたり誰に気を使う必要もありません。早速、買ってきました。

 

 久々のフラフープと私。

 記憶のままに腰の周りで回すと、骨にガツガツ当たりながら3周ほどして落下していきました。心が折れそうになりながら(3、4回程度で!)、youtubeでフラフープの回し方を検索してみると、先生が丁寧に教えてくれます。

 ポイントを押さえながら何回か挑戦すると、突然、腰の周りをフラフープがくるくるくるくる・・・と今までの倍、回ったのです。わぁ・・・!

 

 まだまだ数回に一度の成功、8周程度。という初心者です。これから、しばらくフラフープに挑戦していきたいと思っています。ただ、私の苦手なものの中に縄跳びがありました。縄跳びが苦手な理由を思うと、ここは頑張りどころなようです。もしかしたら縄跳びも(そういえば、縄跳びもダイエット効果は高いのでしょうね)。でも、フラフープで遊んだ後は少し寝てしまいました。

 

 幼い頃の課題と今の課題を照らし合わせてできないことに挑戦していく、今日は小さな光明を発見したような気がします。

蛋餅(ダンピン)

 今日は昼食に蛋餅(ダンピン)を作りました。蛋餅とは、薄焼き卵のねぎクレープのことで「台湾人の鉄板朝食メニュー」なんだそうです。参考にしたレシピは、邱珮宜(ペギー・キュウ)『日本の調味料と食材で作る ペギーさんのおいしい台湾レシピ』です。今まで5品ほど作ってみましたがどれも美味しく作りやすくて、とても気に入っています。何より、表題の”日本の調味料と食材で作る”に偽りなしです。

 実は私は、今日まで蛋餅を食べたことがありませんでした。モッチモチとした生地(薄力粉と強力粉、そしてタピオカ粉が入ります)がおいしかったです。食べたことのない料理を作るってワクワクします。上手に作ることよりも、食べたことのないものを作ることに魅かれます。それが”本当”の味に足るのか足らぬのかは課題ではありますが。また、“上達”することとは少し質を異にするのですが。

 

 ところで中華料理系の本をめくっていると、卵料理の品名に「蛋」と言う漢字がよく使われています。私は以前から「虫」というパーツを不思議に思っていました。なんとなく「油でフワフワにした卵が芋虫のようだからかな。気持ち悪い」と勝手に思っていたのですが、今日を機に辞書で調べてみました。

 まず、私が芋虫を想起したのは、「蚕(カイコ)」からであることを申し添えます。そして、今日まで「タンパク質」の漢字など考えたことも無かったことを告白しておきます。

 

 蛋(タン/ダン)

  字義:①鳥の卵。

     ②中国南方の水上に住む異民族。

  解字:形声。

     虫+疋(延)。

     音符の疋は、誕に通じ、うまれるの意味。

     虫やへびのうまれてくる、卵の意味を表す。

 

 それでは、私の馴染みのある「卵」はどういった意味なのでしょうか。

 

 卵(ラン/たまご)

  字義:①たまご。鳥などのたまご。

     ②はららご。魚のたまご。

  解字:象形。

     卵の象形。

     隠と陽、卵子精子とがひしめきあって生ずる。

     たまごの意味を表す。

 

 いまいち違いがわからなかったのでネットで検索してみると、「トリの卵だけを指す際に蛋を用いる」というような記述を見つけました。「卵だけだと、魚や虫の卵も含まれる」のだそうです。これらのことを前提としてそれぞれの字義・解字を見直してみると、なんとなくわかったような気になります。それに、蛋白(タンパク)とは卵の白身。卵白。対して、蛋黄(タンコウ)という言葉もあるそうです。卵の黄身。卵黄。二つで私たちが食べている卵になります。さて、加えて私は今日初めて、「蛋」が「タンパク質」の「タン」だったことを知りました。蛋白質はproteinですが、どうして「蛋白」という字を充てたのでしょうか?卵は良いタンパク源ですが、卵白だけとは片手落ちな気がします。「蛋白質」とはなんなのか?

 Wikipediaでは蛋白質(protein)の意味・語源が詳しく解説されており、その中で「ドイツ語→日本語への伝播の過程で生じたのではないか」、と言及されていました。日本がドイツに医学を学んだ歴史に思いを馳せて・・・蛋白質は難しすぎるのでまたの機会に回して、本日の連想検索遊びを終わりにします。

 

 明日からは「タンパク質」が漢字で書ける私です。

おじじワンの寝床支度

 私の家には御年17歳になる、おじいちゃん犬がいます。人間の年齢に例えると、もう90歳以上になるのではないでしょうか。見るからに色々と不便があるようなのですが、毎日一生懸命生きています。

 今日は天気も良く、また寝巻きに少しおしっこが掛かっていたので、洗濯をすることにしました。

 

 まずはバケツに水を張り洗剤を入れ、洗濯するものを漬け込む。しばらく放置して、揉み洗いして、水を変えて流す。そして、ある程度清潔になったものを洗濯機で回して、暖房が効いた部屋で乾かす。洗ったものリストは以下の通り・・・

  洋服(インナー1着、フリース2着)

  敷マット

  敷マットカバー

  湯たんぽカバー

  毛布(洗い替え用も合わせて2枚)

 ここまでを見ると「王子様のように育ててきた箱入りおじいちゃん犬なのかしら?」と思うかもしれません。ですが実のところは全くの逆で、うちのおじじワンはなかなかのワイルド系なのです。

 

 おじじワンが「今日から外で寝ます」と家から出て行ったのは、今から2年前でした。それも一番寒い2月に。それまでは、ストーブの横で丸くなって、フカフカのお布団に埋もれて寝ていたのにも関わらずです。気が済んだら戻ってくるだろう、という私の期待をバッサリと切り捨て、今日までのほとんどの日を外で寝ています。無理やり入れると一晩中吠えながら歩き回り、最後には歩き疲れて倒れ込む始末です。かといって寒さに強いわけではなく、底冷えした小屋の中で痩せて関節が硬くなった体を小さく丸めて震えるのです。

 寒い冬、そして暑い夏をどう乗り越えるか戦っています。おじじワンは急激に老いていくので、前回を超えての対策が必要となるからです。

 

 今年の夏は熱中症になりかけて、氷嚢を新規投入することになりました。

 今年の冬は、小屋を断熱仕様にしました(おじじワンの話を面白おかしくしていたら、余っている断熱材をくださった方いました)。おじじワン自体は簀巻きのごとくです。

 シーズン毎に変貌していくおじじワンの家は、さしずめ妖怪ハウスのようです。

 

 夜、寝る直前におじじワンの様子を見にいきます。私はおじじワンが寒くて事切れていないか、いつも少しだけ不安です。

 おじじワンはたいてい、湯たんぽ(柔らかい)があるので熱を感じられるように体の接地面積を伸ばして寝ています。おじじワンは毛布を自分でかけられないので、寝入っている体に起こさないように毛布をかけます。母犬の側を思い出すのか毛布がかかると、深く頭をすり寄せてきます。

 ぐぅぐぅ・・・という安らかな寝息を聞き閉じたまぶたを見ていると、なんで家で寝てくれないか全然分からないし色々と面倒だけど彼も幸せなのかも、と一瞬和やかな気持ちになります。そして、自分がとても寒いので一目散に暖かい部屋へ戻っていきます。

 

 今日は、そんなおじじワンの寝床を支える大仕事の日でした。そして洗濯機を回している間、私はおじじワンの毛を梳いて怒られ、部屋で猫と昼寝をしました。とても幸福な日だったと思います。