海堂尊「チーム・バチスタの栄光」の再読

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 先日、海堂尊著「チーム・バチスタの栄光」を再読した。初めて読んだのは中学生くらいのだろうか。(今はもうない)本屋に平積みされていた、印象的な黄色い表紙を覚えている。きっかけは我が家にあった彼の本にある。一時期母が揃えたシリーズを、その後整理した残りの本たちだ。ちなみに、私は途中で離脱したシリーズだ。

 すべて文庫本で、「螺鈿迷宮」(上下巻)、「ジェネラルルージュの凱旋」(上巻)、「ブラックペアン1988」(上巻)、という超中途半端な品揃えである。理由について、覚えていないけれども容易に想像ができる。「本棚に空きがないから処分は必要だ。(私が)気に入った話の上巻だけ置いておけば、続きが気になったら古本屋で下巻を買ってくるだろう」といったところだろう。しかしなぜ「螺鈿迷宮」だけ上下巻なのか、何も覚えていない。

 「ジェネラルルージュの凱旋」をパラパラと読んだら、案の定いてもたってもいられなくなって古本屋へと向かった。数年前の自分の思惑通りで、ムカついてしまう。価格が手ごろなので、足りない巻の他に気に入りそうなものをポンポンかごに入れたら、それなりの支払いになった。

 

 「処女作」というのは(あるいはヒット1作目でもいい)、どうしてこうも魅力的なんだろう。私は「チーム・バチスタの栄光」を再読1本目に選んだのだが、我が家に上巻だけでも残っていなかった事実に、失望した。見る目がない。 

 様々に優れた要素があるのだろうけど、私が驚いたのは「美しさ」だった。本の評定なんかできないけれど、物語全編に対照的・相似的関係、比喩や暗喩をちりばめている様に感じた。また、表に出てきていない部分も多々あるようにも。それらが、おそらくまだ「粗削り」な技術によって「丁寧」に、けれども強い「エネルギー」によって描かれたのだと、私は印象している。生真面目に編み込まれた工芸品味がある。

 

 「チーム・バチスタの栄光」の原題は「チーム・バチスタの崩壊」だったそうだ。ミステリー的には「栄光」が大正解だと思うのだけれど、私が好きなシーンは、正に「崩壊」シーンだ。人間が意図せず、否応なく、不意に、直視したくない・気が付きたくない自分自身と出会うその瞬間を、私は好む。私ではとても受け止めきれないその事態を、物語世界の住人に被らせる。私は、神林長平の「戦闘妖精雪風」が好きだ。京極夏彦の9割がた読むのがタルかった「邪魅の雫」が好きだ。「彼らはその後どうやって生きていくのだろう」という寂しさが、私を捉えてならない(神林長平の「戦闘妖精雪風」は、実は「その後」を示してくれているのだけれど、こちらはあまり好きではない。登場人物が傷つくさまを喜んで見ていながら、その後を生きる彼らを気に入らない、なんて酷い鑑賞者だ)。

 自分自身の影に脅迫される物語の中では、ミュージカルの「エリザベート」が面白い。結末までも含めて。でも、こういった寂しさの解明を海堂尊には託せないのが、15年の時が知らせてくれる。彼は、その様なことではないことを表現したいのだし、そのようなことを表現する方向には進まなかった。この世にはやるべきことが沢山あるのだから仕方がないことだと思うが、「もしも」と思うと残念な気持ちになる。

 だからこの物語は、永遠に明かされる事がないであろう(そして仮に明かされたとしても、私が気に入ることはないであろう)投棄された寂しさの行方について、私に問題提起してくる大切な物語の一つなのだ。ぜひまた読み返したい。海堂尊にも感謝したい。

 次は「螺鈿迷宮」を読んでみたいと思う。

一緒にいようよ

おじじワンの夜鳴きは春になれば収まると思っていたのだか、近頃も続いている。最近では頻度が増え、一度寝床に落ち着いても何度も振り出しに戻ってしまう。

 

実は、彼は未だに湯たんぽを愛用している。

もう暖かくなってきたから不要かと思っていた日々にもなかなか夜鳴きが治らず、試しに入れてみたのだ。温もりは、寂しさを慰め眠りを誘引する。顎をこっぽり乗せるとウトウトと目が萎んでいく。

 

私は、おじじワンは寂しいのだと思っていた。また、目が覚めた時に混乱し助けが必要なのだと。そのどちらも正解ではあるのだろうけれど、今日は違うことを感じた。

 

おじじワンの側の階段の一段目に、井草座布団を履いて腰をかける。お尻がひんやりと地面の冷たさを伝えてくるが、気持ちいいくらいだ。ぺたんと地面に座り込むおじじワンの目は、くりくりとまんまるい。ほっぺと顎をワシワシすると何となく嬉しそうに見える。

いつもなら立ち上がって彷徨いたり寝に行ったりするのに、なかなか動き出さない。立つのに決心がいるのかもしれない。

 

気持ちのいい空気の中、おじじワンはぺたりとしたままだ。カエルの声や蚊の羽音、家々の街灯の灯、風にそよぐ草葉。そういったものを些細に感じた後、おじじワンを手の甲で撫でると「一緒にいようよ」と言われている気がした。

 

一緒にいる時間を作ってくれてるのだと思うと無性に愛しくなって、ずっと一緒にいたいなと思った。

青春18おじじワン

4月1日はおじじワンの誕生日だった。

厳しい夏の暑さと寂しい冬の寒さを乗り越えて、無事に迎えることができた。おじじワンが生まれて18年。それだけの時間が経ったのだ。

 

おじじワンの18年間、そして17歳の1年間にも沢山の出来事があった。同じように私の18年間と、私の1年間にも色々なことあったのだけど、それは今は関係がない。おじじワンはすっかり腰が曲がって自信がなくなって寂しがり屋になって、小さくなった。

 

お誕生日はもちろんご馳走だった。

 

腰は丸くても食欲はある。実は数年前まで食欲がガタリと落ちる時期があって酷く苦労させられていたのだが、この1、2年はそんな悩みもない。それにはちゃんと理由があって、一緒に食べる「なかま」が出来たことが大きいらしい。おじじワンには息子なのか孫なのか友達なのか子分なのか、どういう感情で接しているのかわからないのだが、呑気な同居猫がいる。決してベタベタ甘えさせないが、存在を受け入れていることがわかる。飛びかかられてもハードル跳びをされても首に縋りつかれても怒らない、そんな猫がいる。

 

2匹でお皿を並べてご飯を食べる。呑気猫はマグロスープを、おじじワンはマグロスープと焼肉を一切れを。おじじワンは後ろ足をしっかり突っ張ることが難しい時があるのでお腹を支えて持ち上げ皿を口元に当てがいながら、2匹でガツガツと元気よく食べた。

 

夜になると、おじじワンは寂しくなって私たちを呼ぶ。何度も何度も呼ばれると段々うんざりしてくるのだけど、呑気猫は一番最初に玄関に行って、おじじワンに会えることを楽しみにドアが開くのを待つ。それを見ると、ふっと肩の力が抜ける。

おじじワンは、誰かが側にくると安心する。ななお君のことはちらりと見る。ひとしきり不安と安心を繰り返して、幾度目かの安心にて眠りにつく。

 

おじじワンには3枚の焼肉がプレゼントされていた。1枚目は4月1日の夜ご飯、2枚目3枚目は4月2日の朝ご飯・夜ご飯…のはずであったが、気づいたらお皿の上の焼肉が1枚になっていた。

テレビの前のビデオデッキの上に、ヘソ天でお尻を突き出して寝ている幸せそうな寝顔がある。4月2日の朝ご飯では、2匹それぞれに焼肉が半分ずつとマグロスープが付いた。

 

 

寺地はるな『惑星マスコ』

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私はあまり本を読まない癖に、本を選んで買うことが好きだ。財布はいつもからっけつだ。町から図書館・本屋がなくなっても、自宅軟禁されても、しばらく家に籠ることができるほどに本が積まれている。

 

買い方の傾向がいくつかある。

 

まず、”私が私に読んで欲しい本”。そのため私の部屋にはページを開いたこともない本が沢山ある。そして、それらは大抵食指がそそられないのだ。何年も何年も積まれ熟成され、いつの日にか読まれたり読まれなかったりする。

 

次は、”本屋で直感的にイケてると思った本”。根拠は、題名だったり表紙絵だったり作者の名前だったりポップだったり、色々だ。必然的に新刊本が多くなる。ごく稀にとても肌に合う作品に出会えるのだか、自分を何かを見出す天才だと思えて多幸感と万能感をかんじることができる。反面、びっくりするほどつまらないものを引く時もあり、そしてそれは大抵完読するので、時間を無駄にしたなとがっかりすることもある。

 

また、”作者買いの本”もある。近年は減ってきたが、学生時代はほとんどこの買い方・読み方だった気がする。こういう読み方をすると、大抵いつかの時点でパタリとさよならしなければならない。どうして人は変わってしまうのか、または変わることができないのか。自分も他人も。

 

そして最後に、”母に買う本”がある。いつからか、何かにつけて母へ本を贈ってきた。母が好きな作家など数人しか知らないし、私は母が好きな本はほとんど読まないので、基準は私の気分による。”直感的にイケてる本”は自分自身へ買うので、差し詰め、”自分は読む気は無い(無意識的に)が気になる本”と言ったラインナップとなる。こんなにも、身勝手で自分本意な贈り物を贈れるのは母くらいだ。そして母は、それを手に取ることができるタイプの人なのだ。私はただでさえ本を読まないので、母に贈った本のほとんどを読んだことがない。面白かったかどうか聞いてそのままだ。自分でもどういった神経をしているのかよくわからない。母も、どういう神経をしているのか正直わからない。

 

先日、母の誕生日だったので『短編宇宙』という本を贈った。加納朋子以外の作者を知らない。アンソロジーなどあまり好んで読まない。が、その日見た本の中で一番だったので選んだのだ。

その中で、表題の作品を母に勧められた。私の感想が聞きたいのだ、と言われて。

 

私はこの物語をとても気に入り、母に贈ってよかったと思い、また母に勧められてよかったと思い、この物語が私の元へ到達した偶然に驚嘆し、今日の日記とする。

 

存在の気づき方

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素晴らしい出会い方をすると、その存在が心により強く刻まれる。

 

桐という木をご存知でしょうか。

花嫁道具としての桐箪笥の話を聞いたことがあります。木目が美しく、軽くて防湿・防虫効果が高い桐は、家具にとても適した材だそうです。家に女の子が生まれると桐の木を植えて、結婚の際に箪笥を調度するという風習は、今でも残っている所はどこでしょうか?ちなみに、私の家の庭に桐は生えてはいません。

 

私が、桐の木を初めて認知したのは数年前、この写真を撮った時のことです。犬の散歩で少し遠出をした時(今のおじじワンは、この頃の15分の1程度の散歩が日課です)、田植えのために田んぼに水が貼られていました。

 

私は、田んぼが好きです。

四季折々に季節を写し込む田んぼは、穏やかな心で見るといつでも美しい。

 

ふと見ると、田んぼに小舟のように、見たこともない薄紫色の花が沢山浮かんでいました。もう何度も、何年も同じ道を歩いてきたけれど、その小舟に気づいたのはその時が初めてでした。咄嗟に、小舟の出どころを探して周囲を見渡してみると、頭上で背の高い木が枝を広げて薄紫色の花をつけています。

 

手も届かないところにある花がこうやって私の前に顕現したことに、特別さを感じずにはいられませんでした。田んぼに浮かんでいるのがいいのです。

また、花を認めた瞬間に桐の花を桐の花として認識しなかったことに、幸運を感じました。花の出どころを探すことと桐の木を探すこととは、まるで違うのです。

 

この木は何という木だろう?という疑問が当然湧き、調べ、私は桐の木を知りました。私は初めて認めた桐の木を忘れることはないでしょう。

美術館という所の嫌な所

感じ方は自由だと言う傲慢について

落とし所を趣味の問題とする怠惰さについて

 


固有性・多様性と絶対的なものとの関係

既存の価値感の破壊

 


自由を後生大事に標榜する人間の不自由さ

当たり前に持っている権利をさも特別なものを授けるように振る舞う

うるさいほっといてくれと思う

感じられるとういことの優越

 


感覚器官の有無・欠如が問題であるならば、

つまり鳥の視覚か4であり犬猫の視覚が2であることと同じであるならば、まだわかるのだ

同じ人間、なぜ人間は繋がることを欲するのかわからないが、根本はここだ

 


自由さと繋がることへの渇望は、どちらがより根源的な性質なのだろうか

自由であることの価値と感動が唯一無二であることに異論はない

教育において当たり前のことを当たり前のこととして提示することはもちろん重要だ

 


形骸化する白々しさ

知が、できるものとできないものを媒介するものはのかどうかはわからないが、知が媒介するものとされてきたこと自体は、多分合っている、ような気がする

が、私は直感したいのだ

 


実生活・実務における都合上、感じないものを剃り落とすことはあるだろう、前進にあたりスピードは大切だし、そこにおける気づきは前進に大きく寄与してきたわけでもないだろう

しかし、根本がそれであったときには看破される

傲慢と怠惰さとして

それが感じられた時、世界は狭まり相手には背中を向けて去られるのだ

 


感じる主体はあくまでも当人それのみであるのに、ご大層に言語化しだすと途端に外化する

わかりたい意思ある者のわかりたさ

マイノリティーのためのものをメジャー化させるためのものなのかしら?それならそれで、別にいいのかもしれないが…


と言うようなことを長年腐して発酵させているのだから、そろそろ燃やせと脳が言っている